グロテスクなコラージュ 新海誠監督『星を追う子ども』雑感

5月7日の公開から一ヶ月以上遅れてみてきたので考えたことでも。
基本的にこのブログは私の興味関心に基づいてすすむのでiPhone情報求めてきてくださってる方はごめんなさい。
そのうちドコモで運用するときのプチtipsまとめます。

今までの新海誠作品について

さて、一応ひとおりみた中でも新海誠作品といえば私が一番好きなのは「彼女と彼女の猫
これはネコが好きだからって言うだけだけども、極力説明を避ける雰囲気重視の作りが心地良かった。
そして発想がもっとも斬新で素晴らしいと思ったのは「ほしのこえ
これも説明を極力省くことによって、観客の目を余計なところにそらさせず、遠ざかる距離の切なさだけに徹底的に沈み込める作りが圧倒的だと思った。


以下「星を追う子ども」についての雑感(ネタバレ含む)

ジブリっぽさについて

星を追う子どもについてレビューが書かれるとき必ず言われるのが、「ジブリっぽい」ということ。
これについては賛否両論あるんだけど、わたしはこれ「っぽい」じゃなくて作為的なオマージュだと思う。
理由は、「似てる」じゃなくて、これは◯◯(ジブリ作品)のあのシーンの構図だ、と思えるカットや台詞が散見されたこと。悪い言い方をすれば「似てる」を通り越してパクリ。パクリって、自覚がないとできない。でも商業作品で、国民的人気の作品をパクるなら視聴者に見透かされることは必至だ。そこに何かの意図がないと、できない。

もちろんアスナの走り方、食べ物を食べる描写はいわゆる「ジブリっぽい」し、彼女の住む街の日常の風景は紛れもなく「トトロ」の時代だ。
それだけならいい。

でも、ラジオを聞いた後アスナが顔を上げるカットはシーンは失念したけど、「ハウルの動く城」ソフィのトレース、アスナを抱えてシュンが飛び降りるのはやっぱり同作品を思わせる。ミミは「風の谷のナウシカ 」のテトに似すぎているし、アガルタの門前の描写は「天空の城ラピュタ」の「三分間だけ待ってやる」だし、クラヴィスは飛行石、シンの旅立ちは完全に「もののけ姫 」のアシタカ。

いちいちあげつらうつもりはないけど他にもいろいろ。
もってきてるっていうかわざとやってるとしか思えない。コラージュ。

ところが、アスナが背を向けるシュンに「さよなら」って言うところでこのジブリっぽさは完全に消えてしまう。それから見逃せないのが、ジブリっぽさの影に隠れているエヴァ臭。ところどころに入る誕生前の回想、古代の叡智による人類の革新を願うグノーシス主義集団、最初のアガルタへの降下はジオフロントセントラルドグマへの下降そのものだったし、夷族がアスナを喰らおうとする姿はエヴァだ。あの人形のケツァルトルも。
絵柄だってジブリっぽいジブリっぽいと言われるけど、その中にはどこか貞本義行を思わせる線がある。
このコラージュで何がやりたかったのかって考えると、どうしてもメタ的になってしまうのだけど私の一つの考え方としては

ジブリにさようなら、エヴァにありがとう、そしてすべての子どもたちにおめでとう

一言にまとめるとこれなんじゃないかと。彼が影響を受けてきたアニメをコラージュし訣別する。
第一段階はジブリからの脱却。シュンが宮崎「駿」だとしたら、シンはまさに「新」海誠だろう。アスナはシュンを追いかけるけど、シュンはもういない。いるのはシンだけで、シンはシュンではない。そしてシンは夷族(=エヴァ)を殺し、死にゆくケツァルトル(これ、エヴァでありジブリである。右腕がないのはシュンを暗示しているから。)の胎内から一度降下して、生まれ変わる。彼は一段階高位の、彼自身となる。

さよならをいうための

ただ、このコラージュの先にある「新しいアニメの姿」というか、新海誠の独自性みたいなのはいまいち見えてこないので評価が下がるのも分からんでもない。脚本は穴だらけだしね。この作品はそういう意味では、新海誠が影響を受けた作品に対して「さよならをいうための」ものだったのかもしれないな。


とか考えるのは穿ち過ぎでしょうかね。

さよならは誰にでも悲しい

人が生きる限りあたりまえにある最愛の人に対する「さよなら」でも、それに対する悼み方は人それぞれ。
今までの監督の作品と違うのは、喪失の切なさだけを描くことに留まらず、喪失からいかに浮上するかということまで描こうとしたところかな。
監督は今回エンターテイメントを重視したそうだけども、やっぱりそこだけにフォーカスしたつくりにしたほうが観たかったな、なんて思ったり。

いつだって新たな出会いへの期待よりも、人との別れと喪失の悲しみのほうが大きいといったひとがいた。
これってよく考えるとすごく不思議なこと
死者を悼む習慣をもったのは現生人類と、その一つ前のネアンデルタール人だけだったか。